昭和42年04月05日 朝の御理解



 昨日学生会の方達が私の控えの方へやって参りましてから、今あの毎日新聞の編集に大童だ。もう殆ど徹夜の様にして、幾人の方達が熱心にやっております。その編集をしておる人達が、昨日私の所へやって参りましてから。親先生この合楽のお広前がこうして、御成就になりました。その事についてまあ漠然とした質問なんですけど、先生どう云う様なお考えをお持ちでございましょうかと、云う様な意味の事を質問受けたんです。
 で私まぁこんな様な事を申しました。そうですなここに、私がここのお広前を建立したと云うならなんだけれど、これは私が建立したのではない。と云うてほんなら信者の真心だけで、ここが建立したと云うのでもない。私の願いでもなからなければ信者一同の熱心な御用と真心とが集まって、これが出来たんだと。まあ大体はそうなんですけれども。実を云うたらそうじゃないのだ。
 それは、天地の親神様の願いと云うか、その天地の親神様の願いというものが、ここ合楽の地にご成就になっておると云うだけの事なんだ。神様の願いというのが、ここ合楽の地にご成就になりつつあるのだと。私どもの願いが成就しておるのじゃない。なるほど願っても来た祈っても来た、一生懸命御用もさして貰った。一生懸命真心の奉仕もさして頂いた。例えて云うならこれだけの事がなされるのでございますから。
 只、お金も要らなければ、人の力も要らんという事じゃない。けれどもそう云う事の一切がその元になっておりますのは、天地の親神様の願いが、ここに成就していきよるのである。そこでこれからの私の願いというか、思いというのはどこに焦点を置かなければならないかと言うと。ここまで神様の願いが成就して来ておるのであるから。これが愈々本当の意味のご成就相なります様に。
 そのご成就の邪魔にならん様に、心がけるだけだと云う意味の事を、申しましたですけれど、皆さん私のそう言うておる意味がお分かりになるでしょうか。神様の願いと云うのは、この氏子一人一人が云うならば、人間の一人一人が世界中の氏子がです。真の信心をさして貰うて、真実の助かりを得るという事。真実に助かって行くという事。本当の助かりを頂いてこの世は苦の世とか。
 この世はもう苦しいものだと思い込んでいる人達にです。それに今ここに天地の開ける音を聞いて目を覚まさせて。この世は、この様にも幸せなものである。この世は、この様にも有り難いものである。しかも、この世で、この有り難いというものを頂いておかなければ、あの世に有り難いものがありえない。この世で有り難いものを頂いて、始めて、それを持続し、持ち続けていけるのが信心なんだ。
 それを願っておられるのが天地の親神様なのだ。それをお取次ぎして下さるのが、金光大神なのだ。神の願いが、地上に、いわば、なっていくのである、成就していくのである。世の中の難儀な氏子が、ここのお広前によって取次ぎ助けられていくという事は、そのまま神様の願いが、叶えられて行く事なのである。もっともっと、ここのお広前が、内外共に充実して参りまして、おかげを頂いていくという事は。
 愈々神様の願いが充実していく事であり、願いが叶うて行く事なんです。私共のもんじゃない叶うのじゃない。神様の願いが叶うて行くのである。ところがここにです。いかに神様がその願いを切に持たれましても。どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと。例えば神様が泣くように、その云うて居られましてもです。どうぞ信心してと言う所が私共の上に頂けなかったら、神様の願いが成就しないのです。
 お互いが、自分の身の回りにある所の様々な難儀。その難儀な事が、一つ二つとこう成就して行く事が信心の様に思うており、おかげの様に思うておるけれども。それはね天地の親神様の働きというものをです。親としての権威にかけてですね。只そういう働きそういう力を、いわば奇跡的なおかげと云う様なものは、見せておられるだけの事であって。それが神様の願いじゃない。
 人間の一人一人が、本当に神様の願いを願いとさせて貰うて、いわば天地の願いを願いとしてです、神様の思いを愈々深く深く判らして頂いて、その神様の思いに添い奉る生き方。そういう生活出来るところから人間の幸せがある。人間が真実助かっていくところに子供が助かっていく事を、親が又助かって行く事と同じ様にです。私共が真実の助かりを得て、始めて神様も助かって下さるのである。
 そこで始めていわゆる、あいよかけよで立ちゆこうと仰る。親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ちゆくと。神も立ちゆき氏子も立ちゆき、神も立ちゆきという、いわば神様の理想実現という事になって来るのです。ですからここのお広前がです私共の真心が、こういう風に成就したのだと言うのではなくてです。天地の親神様の願いが、ここにこういう風に成就しておるのである。
 そのご成就に対して、私共が神様のそのご成就に対して、私共が微力を捧げさせて頂いたという事になるのですよ。ですからこれからとてもです、神様は、どの様な大きな働きを、ここに下さろうとしておっても、その働きの邪魔になる様なあり方になってはならない。神様の働きの邪魔にならん様に、邪魔にならん様に。云い替えますとほんならこれは合楽のお広前だけの事じゃありません。
 ほんなら、ここに中村喜久代という人があります。天地の親神様が中村喜久代にかけられておる願いというのは、どうぞ中村喜久代。真の信心をして真実のおかげを受けてくれよと云うのが、中村喜久代に対するところの神の願いなのだ。日々を喜び勇んで、信心の稽古をさして頂いてくれよと。そこに天地の親神様の、中村喜久代にかけられるところの願いというのが成就して行く。
 その形の上ではお店が繁盛して行くとか、家庭が円満になるとか健康であるとかという形になって現れて来るだけの事。ですから自分の願いというものが、もし成就していないとするならば。結局神様のそうした願い、神様のそうした思いというものに、どこか邪魔になっておるところがあると云う事。そこんところを判らせて頂く事が、私は悟りだと思う。ははぁこう云うものが自分の心の中にあるんだと。
 こう云うあり方では神様の働きの邪魔になる筈だというところを判らせて貰って、そこを改めて行かなければいけんのです。ですから合楽だけの事ではない、お互いの一人一人の上にです。神様の願いがある。その願いが成就していかなければならん。そこに神様の願いが成就して行くだけではない、私共の願い以上の願いが成就して行くのであります。ですから昨日、私が学生会の方達に申しました様に。
 これからとてももっともっと、云うならば大きく広く御用に立たせて頂かなければなりませんから。ここの内外共のご比礼というか発展という事がです。まあ神様はどの様な大きなおかげを、ここに現そうとしておられるか判らんですから。ですからその働きの私が邪魔になる様な事があったんではです。もうこれでおしまいなんです。それで何が邪魔になるかと云うと。
 ほんならここで申しますなら、私自身の心の中にある我情我欲と云った様なものが、神様の働きの邪魔になるのです。私が不熱心である、私がもう楽な事ばっかり願っておる。難儀な氏子の取次ぎ助けという、そういう働きの事にはもう無関心になってしまって、もう私は楽な事ばっかり考えよる。それでは神様の働きのお邪魔に愈々なるばかりなのです。どうぞお役に立ちたいお役に立ちたいという一念。
 神様はそういう願いに答え奉る、神様の願いにいわばお役に立ちたい、立ちたいという一念がです。どうぞ御用に使うて下されぇと云う事になるのです。そこでほんなら御用に使うて下され、御用に使うて下され、とだけではいけんのです。例えば私をお給仕に使うて下さいともし致しましょうか。私はこうして、神様にお給仕さして貰っとる様なもんです。ところがその給仕人の私がです。
 もう器量は悪か、着物は汚れとる、手は何時どん洗うたやら判らんごとしとる手で、さあ神様もう一杯召し上がれと云うたじゃ、お給仕したところで、神様はむっとしなさるじゃろうと思うです。もう向こう向きなさるじゃろうと思う。器量もええ着物もさっぱりとして、それこそ清潔な感じでです、私が神様にどうぞ召し上がれと、こう私がお給仕させて頂く時に、神様も矢張り食欲を感じなさるであろうと、まあ思うのです。
 例え話がです。皆さんでもそうでございましょうが。お役に立ちたい、お役に立ちたい、どうぞご用に使うて下さいと云うても。汚れかくっとったって器量が悪かったんじゃです。やっぱ神様の前には出られんです。勿論器量という事は心の器量の事でございますから。祈り形の事じゃございません。心の事でございますから。心がなんとはなしに可愛いらしゅうなる心を持っておる。
 成る程あの氏子の心は美しい。そういう美しい心の氏子が、しかもさっぱりと本気で美しゅうなろう、限りなく美しゅうなろう、限りなく改めていこう、と云う様な願いに燃えてです。そしてお役に立ちたい、お役に立ちたい、どうぞお役に使うて下されいと云うところにです。神様が限りなく御用に使うて下さるでしょう。その限りない御用に使うて頂くという事がです。
 神様の助かりになる事であり、私共の願い以上の願いが成就して行くという事になるのです。難しかったでしょうか。もう一辺よく皆さん私が申しましたところを、繰り返し心の中に練って下さいまして。私共がどうぞあげんなりますごと、こげんなりますごとと願いよるけれども。それは神様の働きというものがです。この様な事にまでこういう働きを下さるんだというその実証と申しましょうか。
 そこが判らして頂いたら、その神様のお心を心として、いわゆる神様の心を判らして貰うて、神様の心に添い奉る生き方。そして愈々のところはです。一人一人の氏子の上に、神様の願いがあるのであるから。その願いが成就して行く様なおかげを頂くために、その神様の願いの、神様のそういう働きのお邪魔にならん様に、お邪魔にならん様にという心がけを持たして頂く事なんだ。
 何が邪魔になっておるかというと、私共の心の中にある所の、云うなら我情我欲が邪魔になっておるのであるから。その我情我欲を取り外させて頂く事に、限りなく努めさして頂くと言う事。そこに愈々教えが必要になって来るのである。教えの鏡というものを前に立てなければ、自分の姿が判らんのである。教えの鏡というものを前に立てさして貰うと。あぁここがこんなに汚れておった、あぁここがこんなに見苦しかったと。
 そこんところを改めて行くところの生活に入って行く事が出来るのです。そこに神様と氏子とがです。本当に喜び合うて行けれる、いわゆる神様の理想の世界が、実現されて行く。そういう理想の世界が、実現して行く事のために、この合楽のお広前は、建立されたのであるという事なんです。これからも愈々もっともっと沢山の人が、ここで助かって行く事のための働きがです。現在おかげを受けておる人達の信心、言わばおかげ受けて行かれるその姿がです。
 所謂自分が助かったと言う事をです。助かって行きつつあると言う事をです。又難儀な氏子に取り次がせて頂いて自分の周囲にも、又助かって行く人達が段々出来て行く所の願い働きというものをです。なして行かなければならない。ここのお広前は私が思いで建ったのでもなからなければ、信者の真心で、是が建ったとこういう風に申しますけれども。実を云うと、神様の願いが、只、ここにこういう風にして現れて行きよるだけの事。もっともっとそれが。
 立派なものになって行く事のためにです。私共の一人一人がそう云う神様の働きの、お邪魔にならん様な、あり方にならして下さい。と、愈々我情我欲を取り外して行って、我情我欲を離れて、真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に活かされてありという、本当に、神様の懐の中にあるんだな、神様の本当に、氏子可愛いいと云うご一念と云うか、そういう思いの中に私共があるんだなあと云う、喜びに浸らして頂いた生活をです。私共は求めて行かなければならんと思うですね。
   どうぞ。